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眠れないので

・生き延びること

・生活の基盤を整えるのに一年をかけること

・自分を切り売りしないこと。自分を大切に扱えるのは自分しかいない

・孤立しないこと

 

以上。

ためらう事、それはためらいがあるのでまだその時ではないのだろう。

大きな流れの中を、鯨のように泳いでいく、ただそんなことを考えながら自然と自分の結びつきを忘れないように生きていく。

 

『これが終わったらあれしよう』なんて考え続けることを隙間なく考え続けていた。

いやはや、それじゃ二の舞三の舞。

いずれにせよ、始まりは決まっているし、それは必ずくる。そしてそれからが長い。

だからこそ、ここ1週間ばかりはぼーっとしようと思う。ぼーっとすることによる焦りもあるだろうけれど、それもかんじつつぼーっと、生産的だと自分が考えていることを取りあえずお休みしようと思う。

でも自然な心の動きでやりたくば、やる。

これまでとこれからの間に居る私だから、これまででもない、これからでもない、そういう今を生き続けることにする。

 

銀河を渡るカリブーを都会の真ん中で見た。

クジラの写真は、見るべくして見た、という気持ちになった。

一生のどこかで、自分の心が大きく揺さぶられ、そして惹かれるものと出会う時があるとするなら、

そのものはやはり大切にしなければならない。

方々に、連絡をしてひと段落。誰かのお蔭だと思うし、自分の頑張りでもあると思う。

そのへん、自分は律儀だったりするのだなあと苦笑いをする。

暫く、ゆっくりしよう。

私と暮らし

暮らしに欲しいものは、

お酒よりお酒を一緒に飲める友人とその時間だし、

ブランド品より、ブランド品の良さを見分ける目や感受性だし。

結局物質的なものにちゃんと評価して、自分なりの価値をもつことだと。

間違っていた。そう思う。それは未だ分かったり分からなかったりする。

辛いことでもある。なぜか。そして常にその間違いを確認する。思い出す。

何かここ半年の時間を通して、要らなかったものと要るものは見つけられた。

でもそれをきちんと忘れずにおけるだろうか。

そんな杞憂を、旅立つ前に考えている。

モノを持つにはあまりに自分の部屋と自分のスーツケースは小さくて、自分も力がない。

感慨にうまく浸れない。きっと浸る必要はないのだろう。

反動めいたものかもしれないが、揺蕩い、が続く。

数年後、また考え直してみたいのだが、今の私は留まることを考えない。

人間の絆、それは感じるし、その助けがないと、ふわりと糸の切れた風船のように、

太陽に挑戦していただろう。

しかし、まだ足りない、と何かが囁く。そして私も足りないと自覚している。

少し前までは、終わりがあることに恐怖し、今は終わりがあることに安堵している。

すべてを知ることが不可能だからこそ、選ぶ必要があり選ぶことが赦されるから。

無限を手に入れたくなるあの時期と衝動というのは何だろう。そして万能感を求める若さ。

世界の果てが流れる滝ではなく、実は私の後ろ姿を常に監視できる形状だったと分かったときからそういう青年期は終わった。

永遠に前進できるその形状のなかで、きっと私も何かを感じて、見てしまったのだと思う。

私に備わってしまったsense of wonder、私も第七官界を彷徨っている。

私と一人分

私一人分が生きるだけの本、音楽、身に着けるもの全般、食糧は、何がどれくらい必要なのか。

そして私一人分が生きていけるだけの時間はどれくらい必要なのか。

常にそういうことは考えたり、そっとして置いたりしてきた。それを考えることが一つ私の中の「生きる意義」の一つであるし、そういうことから私の「生きる意義」を洗練させようともしている。

そしてそれらからそっと距離を置くことは、息苦しさ(生き苦しさ)から解放されることでもある。ただぼーっとする時間やその他のことをやる時間がそうだ。

 

結局、おおまかな流れとして、就職や、家庭をもつなんてことが意識されないまでも、我々のまなざしや振る舞いの中に、そこに向かうのが当たり前でしょう、ということが見え隠れしていた、壮大な準備であった(と考えている)あの時期で、お互いの些末な時間の使い方の違いにどうして躍起になってしまったのだろうと思う。お互いをつぶさに監視しあっていたあの時期は。

何かをしている時間は何かをしていない時間だし、誰かを選ぶことは誰かを選ばないことでもある。

ただ時間の使い方が違うだけで「レールから外れる」「敷かれたレールの上をゆかない」などと表現される。

「レール」という比喩によって、レールによって進行が縛られている「電車」に私たちの人生を例えたのだろう。しかしレールから外れるとはどういうことなのだろう。

レールを例え外れたとしても、我々の人生が電車のようにレールに縛られたものであるのならば、結局新たなレールを敷いていくしかない。しかし新たなレールを敷くとなると個人の力で敷けるものなのだろうか。そして本当に新しいレールを敷くしかないのか。他にそのレールを進んだ人がいないのか。など。

それは結局外れる、外れないではなくて、「正しいタイムテーブル」に縛られた進行が想定されて、それが「遅いか早い」か、そして進行上にどういう「停車駅がある」か、の2点ではないのか。つまり陳腐だが、死という終着点に対して、「社会にでる」や「結婚」などが多くの人にだいたいどれくらいの時間に留まるのか、大まかに設定されているだけではないのか。

レールを敷くのは、個人なのか、時代なのか、文化なのか。

比喩で人を語ることが嫌なのは、比喩に使われる言葉の定義に人を縛り、そしてこぼれ落ちてしまい、こぼれ落ちるモノたちに責任を持たないことだ。単なる比喩のために悩む人もいる。

私は人のいう「レールから外れる」時、レールから外れるなんて思いもしなかった。ただ私はここで留まろうと思って留まっただけだった。ここは通過しようと思ったから通過しただけだった。

心情を無視して、比喩的に言われるのが嫌だった。

そして私は、たったそれだけの比喩で片が付くものなのか、と驚いた。

勿論そうした眼差しと言葉を投げかけてきた人はもう私よりはるか先に居るし、私のことは見向きもしなくなった。

色々とお蔭で洗練されてきたと思う。整理された、という方が近いかもしれない。

あと少しで新たな局面に立てそうである。その時見える風景にわくわくしている。

その為の準備として冒頭に掲げたことを真面目に考えている。

散歩

よく散歩に、夜、出かけます。

昼間も昼間で、移動はもっぱら歩きなので常に散歩していると言えばそうなんですが。

昼間は良くものが見えるので些細な変化、右側の歩道から見える景色と左側の歩道から見える景色の違い、昨日はなかった花が今日は咲いていること、割とそういうことに気が付きます。

寧ろ意図して変化を見つけています。

そうすることで時間の感覚を手放さないようにしています。毎日確実に変化しているのだと。

一方、夜は暗いので殆ど変化はありません。変化、上記に述べたような視覚できる変化は、ですが。

代わりに体感する温度や外気の匂いなどに敏感になります。大雑把にいえば皮膚感覚が研ぎ澄まされます。

その時、ぐっと気持ちは今に引き戻され、将来のあれやこれは霧消してしまいます。今ここが強烈に意識され、自然と等身大の穏やかさを取り戻します。

この経験を通して感受性が回復されて、守られているのを感じます。

 

ここ数日は準備やら暑さやらで夜の散歩にいっていなかったので、ひさびさに時間をかけてたら、そんなことが思い起こされ、改めて感じられました。

後は座して、待ちましょう。それだけです。あー温泉につかりたい。