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私と5月

5月が過ぎました。

書き記したものを見てみると、こちらでの文章量は減っているのにアナログに残している文章量はここ二か月増えてい増した。

内面化することは結構体力を使います。がっつり自分と向き合うわけなのですから。

となるとここ二か月くらいの方は内面化を文章にして残せるほどに余裕がある、ということなのでしょう。

5月は特筆すべきことはありません。初旬に人と会ったくらいで後は連絡したり来たりした程度でした。学習ペースに関しても、下旬に波の谷間が来ましたが、わりかし「ああ来たのね」というくらいに眺めることはできました。抵抗はできませんでしたけれど。

5月の自分を振り返ると、やはり1か月に2回ほど、家族や職場以外の人間と会話することや出かける時間をとるべきなのでしょう。

4月上旬までは極端な形でそういったことを制限していましたが、5月はそのへんを意識して色々とやってみました。

あとは、波の谷間がくるメカニズムが多少なりとも把握できればいいんですけれども。

嗜好品ももう使用してませんし、それの中断にともなう離脱症状もあるはずがないので、きっと1か月を単位とした”サーカディアンリズム”のようなものがあるのでしょう。

 

それが寂しさ故なのか、それ以外なのか、寂しさとそれ以外がまじりあっているのか。

寂しさ故だったら正当化できないのか、そういうことを考えていました。

しかし寂しさは実際あるのだし、自分の中の「正しい」形で処理できればいいのですけれど。

しかし本当にそれは「寂しい」からなのかどうか、も考える必要もありますが。

 

食事はきちんととれていますし、新しい料理にも挑戦しました。親子丼や煮込みハンバーグなど。最近バジルも育て始めました。

4月は「朝に道を聞かば~」という気概で毎日過ごしていましたが、5月は割とそういうこと考えずに(それでも毎日戦いだ、と中島みゆきの「ファイト!」が流れていましたけれど)、過ごしたような気がします。

 

取りあえず元気です。このまま私は若さを「学習」へと振り分けて生きそうな、そんな気がしています。学びたいことが多いのは未来志向で良いことです。

皆さんはお元気でしょうか。

私と沈潜

月に一度かそれくらいの間隔で、非常に落ち込むときがあります。

大抵日々のローテーションもままならないくらいに落ち込みます。

お風呂も入りたくないし、起き上がりたくもない。ただ眠っていたい。けれどそんな時は日中寝ているわけですから、夜に起きてしまい生産性のない日中を恨めしく思い起きているわけですが、結局何もしたくない思いは生産性のない日中を思い返し、自己嫌悪で一杯になって、また明け方に眠り、日中はだるい、という循環が発生します。

書き連ねていくだけでも、ひやっとします。ずっと続いていた時期がありましたから。

 

数日前も、同じことが起きました。割と調子よく日々を過ごせていたのですが、ある日に夕食後、非常に疲れてしまいそのままベッドで眠ってしまいました。

中途半端に眠ってしまったので、起きても怠いし、何もする気になれない。夜気を取り直して寝ようとしても寝付けない。

何もしたくない。それでもいつもの時間に起きて仕事にはいく。

その日の午後はいつも通りやりましたが、また夜、同じことを繰り返してしまいました。

その日の夜は辛うじて、散歩に行き、シャワーを浴びて少々学習したのですが、結局眠るのは遅くなってしまい、翌日は非常に疲れた状態でした。

その日も仕事で、その午後はてんで働かず、昼寝もそのまま起きられずに眠ってしまいました。

夕飯を食べたものの、そのまま何もせずに過ごし、早めに眠りました。

次の日はお休みでしたが、定時に起き、朝ごはんを食べたところで、また眠りました。

今回は2日で済みました。耐えられず、10時くらいに起きて、頭痛がするくらい眠ったのですが、シャワーを浴び、買ってきてあったから揚げをもりもり食べて、外にでました。

そのまま半日読書と学習に費やしてまた戻ったようです。

それは仕方のないことで、自分を責めることが一番やってはいけない、生産性のないことだと言い聞かせます。

私は、もし落ち込んで落ち込んで落ち込むことで地面に、例えば5センチくらいめり込んでしまうなら落ち込む意味も多少はあるのかもしれませんが、

落ち込んで落ち込んでもめり込む前に心がノックアウトされてしまいます。

そんなことを思っていても、過去がフラッシュバックしてくることもままです。

ですが、それをして1秒くらい過去にタイムスリップできるなら100万回くらいくよくよするかもしれませんが、その前に今に置いてけぼりにされてしまうでしょうね。

正直なところ、まだ過去を考える自分が、悔しいです。

でもそれでもその時間が、純然たる今を意識することで置き換わっていることを、目の前の変化を感じ取る努力で置き換わっていることを信じます。

まるっと全部忘れていいことばかりでもありません。それは断っておきます。

 

畢竟、自分の予期せぬところでこういう事が起きます。それは自分ではどうしようもないことですし、それから救いあげるのは、過去何度もそこから立ち上がってきた自分自身のみですから、自分を頼みにするしかないです。

勿論そういう前触れ、例えば休みが取れていない、刺激がなく、惰性な行動になっている、など細やかな部分はあるでしょう。

しかし、その日を恐れて生活するつもりはありませんし、その日は来てしまうものですから、しょうがないです。

しかし来るたびにその日に対する抵抗力は高まっていますし、その度に回復する自分はえらいと思っています。誰も褒めてくれませんし、別にいいです。

そのおかげで今のことをもっと見聞きしておこうと、せめて変化を嗅ぎ取る皮膚感覚を研ぎ澄まそうと努力しています。

日々戦いとはこういうことも含んでいます。

 

沈潜(こう呼びましょう)の時に頭脳を使わないのでとにかくインプットを欲し、そして文章にしたくなります。

それがいわば復活ののろし、ということでもありますね。

具体的な(社会的な)動きに乏しく、未だ精神的な部分の構築に精を出し、無論それは実践を伴いはしますが、ある程度社会に対して試されて、耐えなければならないと思っています。

 

現在は、筋トレも、ご飯も、睡眠も、運動も、インプットもできているので「元気」の基準はクリアしています。たまに元気な若者を見ると「私の若さは何処へ~」と奥歯を噛みしめていますが、まあきっと上記のことのためにせっせと使われています。

「若いから無理できる」の意味が分かってきました。今のうちに頭に入れて、習得しておかなければならないあれやこれやも分かってきました。

それは自分の中でえらいことだと思っています。

 

私と一日

午前中は何かと疲労感があったので、えいやっと寝ました。

午後はいつも通りに出先で学習。その出先の喫煙所で話しかけられ、初老の男性と懇談しました。

一日が、こんな偶然性の出会いによって彩られながら終わります。

何かと疲れることやストレスがたまる、自分でどうかしようもあることやどうしようもないことが様々に生じます。

一方で、同じ一日の中にこうした偶然が紛れ込み、刺激を受け楽しくなったり感じ入ったりしています。

学習も何かと楽しいし、割と思い通りな生活は幸せです。

もうこんな自由な時間はないでしょうから。こんな透明な存在であることは。

だからこそ、今得られる事、思考の翼を広げて考えられることを欲張りでも考えておかなければなりません。

勿論、恍惚な表情で街を歩いているわけではありません。大抵むつかしい顔をしていると思います。

日々戦いです。

 

 

私と4月

4月が5月へ引き継がれるとき、外を歩いていました。

何処にいてもおかしなもので、共通の季節の匂いを”感じ”、そのおかげで季節の記憶がある。

少しおセンチな気分に浸れるのが、晴れた夜の散歩のよいところです。

4月の頭は、孤独感がここに極まれり、という感じで何か言いたいけれど、言えない、誰かに会いたいけれど、何を話したらいいか分からない。そういうことがぐるぐるしていました。

状況が状況で、まずは落ち着くこと、穏やかさを得て、学習することを優先していたので人と自ら接触することを避けていたのですが、要は機が熟していたのか、少しずつその殻は破られて行きました。

色々と皮切りに人と接触する機会が増えた月でした。

生活の場所と、時間配分と、周囲の人が変化した結果、残るものがいくつかあり、そのうちの一つが「人と話す」ということでした。

以前にも書いたように、自分以外の人間と、特に生身で話をしないと、少しずつ自分との距離が狂い、焦点が合わなくなっていくようです。

大事なのは、生身で接すること。場の力も作用して様々な変化が発生することを改めて考えました。

一人では生きていられず、「対話(ダイアローグ)」は必須の要素です。

独りでの思索はそれによって更に磨かれて作用していくことができるようですね。

 

4月の一か月だけでも、非常に色々なことを考えました。毎日は摩擦のない道に見えても(それはこれから、やこれまで、として見るとき)、その日その日の紋様は明らかに違う。

4月の1日と30日ではたっている場所が違う、そういう確信があります。

こうした経験は、つまり今後1か月単位での生活を考えたとき、1か月後の私はきっと立つ場所が違うだろう、けれどそれは今の尺度では測れない。成長(変化)とはその尺度自身も変化していくことに他ならないのですから。

3か月前の私を良く思い起こそうとします。文章として残ってはいるし、それを読むと幽かに当時の残り香を感じますが、それ以上は分かりません。

それは同じ距離分3か月先へ、たまに投射します。それが、少し愉しみなのです。

こうした、未来への投射へ愉しむ気持ちがあることは、正直驚きです。

一日一日の平凡さを考えることすら恐怖だった毎日が、このような変貌を遂げたとは。

偶有性と必然性が、一つのキーワードとなって生活を彩っています。

 

私の4月はこんな感じです。

私と過去の扱い

今日は、仕事に行き、自尊心を回復し、昼ご飯と夜の仕込みをして学習し、帰宅して夜ご飯の支度にかかりました。

これからもほぼ毎日となると、些かげんなりしますが、休みはあるし、恵まれているので、折角だし好きなものでも実験的に作ろうかと思います。

最近の発見として、夜ご飯を食べると疲れがどっと出てます。しかし発起して風呂→筋トレをこなすと、いつの間にか、寝るまでのラストスパートに切り替わります。

いや、寝るまでの助走、ですかね。

そういう風に体が出来ているみたいですね。それでも切り替わらないときは早めに切り上げて寝支度に入ります。いつもと違う、という事は何かしら強度のある疲労がたまっているという事だと思っています。

最近は

起床→朝食(温かい汁物は必ず、後は糖質を組み合わせて)→しばらく瞑想→仕事

というサイクルで朝は回しています。その日の感情や体調を点検しています。

朝のカロリー摂取の前に、脳を使うようなことは避けています。頭脳労働でも、朝のカロリー不足の状態ではその日のその後の行動とその心理が違ってきているようです。

 

過去とは、今の私にとってどういうものでしょうか。

最近、その扱いについて色々と考えていることがあります。

今の私に、その過去はどれほど干渉することが可能なのでしょうか。私は考えます。干渉できないと。されてはならない。

確かに、私の中にその時間が生きた場面、時間が在りました。過去が私の中に生きた事実はあります。

しかし、その時軽く頬をつねります。今を生きているのは私であり、生身の存在はあらゆる現象に先行しています。

しかし、その過去を否定したり、消し去ってしまおうとは考えていません。

その過去を生きた事実は、私に確かにあり、それを消す消さないこと自体、矛盾してしまうからです。それを許したのは私です。

私は手向けの花を一輪添えることはできますが、それ以上のことはしてあげられません。それは仕方のないことで、過去自身も私に手向けられる以上のことはできません。

花を手向け、いつまでもひざまずいているわけにはいかず、頬をつねられている私は存在しているのですから、今の私に失礼です。

決別はしませんし、できない。でも今の私は確かに在る。

頬をつねるとき、シャワーの水滴に打たれているとき、感じます。

生身をひしひし、感じています。

私がたおれたら、私という直接性は自己完結してしまうでしょう。けれどもだからこそたおれずに、直接性を固持していきたい。考える葦とはまさにそういうことかと。

誰かの直接性もそんな感じで見守っていたり見守られたりしているのですが。

 

明日は映画を見に行きます。おーるたいむべすとの映画なので楽しみです。

 

私と詩一篇

ぼくの孤独はほとんど極限(リミット)に耐えられる

ぼくの肉体はほとんど過酷に耐えられる

ぼくがたおれたらひとつの直接性がたおれる

もたれあうことをきらった反抗がたおれる

吉本隆明 詩集『転位のための十篇』 詩「ちいさな群への挨拶」より

 

 

私と生身

生身の人間は強い。肉体的な、筋力の強さではなく、その存在が発するエナジーが強い、ということです。

幾ら私が自分を自分の城で囲ったとしても、いざ生身の人間と対すると、どんどん土足で踏み込んでくる。

様々に、侵入されたときの訓練を積んでいるはずなのだけれど、いざとなると全然役に立たない。

だからと言って、ただ侵入を懐手で見ているわけにはいかない。

侵入の前に、私自身がその戦いの場に先陣を切り、立ち向かわなければならない。

しかし、それは必ずしも相手を打ち負かすことを意味しません。

寧ろ、腹を割って無血開城することが一番望ましい。

使者を送って、停戦するのが良い場合もある。

いずれにせよ、戦い、という場に出る覚悟をすること。しかし戦いは避けられもするし、そもそも手違いかもしれない場合もある。

 

一方で、そのエナジーが私と共振する場合もある。

いずれにせよ、無防備な形で人と会うのは考え物であるなと思います。

しかし、いくら考えたところで、生身の人間の、生の状態は、強い。

無論それは相手にとっての私もそうで、だからこそ出会ったときの電のような衝撃に期待する自分もいるわけです。

 

少し思うところがあったので整理しておきます。