機械的な私。

朝から自転車を漕いで街へ出かけました。

午前中のご褒美に、目を付けた喫茶店で昼食をとり、また自転車で戻りました。

計1時間少々の道のりでした。

その後はいつものように図書館で新聞を読み散策して帰宅。

今日も新しいことをいくつかやりました。毎日は一見変わらないように見えるけれど、こうしてみると変化していることがあることが分かります。

行動を記録しづつける良さは変化や新しいことに気づくことです。そして、変化している今により焦点が絞れる点です。

それは自分の内面の動きも同じですね。

以前、師は言いました。「たとえ重くのしかかることや、自分が大切にしていきたいことでも、一日24時間の内に一体どれほどそれに費やしているのか、実際に計算してみるといいよ」と。

例えば健やかに暮らせる最低限の生活時間を考えてみましょうか。睡眠に7時間とします。残り17時間。ごはんを作り、食べ、片付けまで含めて平均1時間(朝はもっと短いでしょうし、夜はもう少し長いかもしれませんからね)。それが3食で3時間。残り14時間。風呂は0.5時間とすると13.5時間。

少なくとも13.5時間を純粋に使える時間とするならば、家から一切出ない、という限定付きです。でも実際はそうではないし、そうなると前提とした「健やか」とはかけ離れてしまいます。

さて。正味10時間くらいでしょうか。多いでしょうか、少ないでしょうか。

そのモデルを、自分が実際送っている生活に当てはめて考えてみると色々興味深いと思います。「時間がない」とか、やりたことがやれない、と思うことへの改善へつながるかもしれません。

勿論、そんなに機械のように生活なんてできるわけではありませんからね。しかし、自分の生活がどのように運行されているか、を知ることは自分を知る上で重要ですし、調子が悪い時は平常時(良い、ではありません)と何が違うのかを知る手がかりになります。

例えば、睡眠時間が長いことによる余暇の時間の喪失、逆に余暇をする気力がないために睡眠に走る、など。

 

今私は療養期間でして、漸くこのように考えて生活を遂行する合理性を理解したところです。一度このような実験的生活を経験しておくことが、この先に役に立つだろうと、何となく思っています。そしてそれは一足跳びにわかることでもないことも。

 

環境と、人と、配分を変えること。でしょうかね。たまたま目にした呟きにそれは人が変わる三要素だとありました。自分を変えるとは書いてありませんでした。

今日のお料理は家人に任せました。うまうま。