私と分人

今日も今日とて午前中は微妙でした。けれど、家事はやったので良しとしましょう。

午後は映画「氷の花火 山口小夜子」を見ました。

 

美しさ、に涙しそうになる経験は初めてでした。

スクリーンごしに目と目が合うと、とてもじゃないけれどこちらが恥ずかしくなってドギマギしてしまいました。

彼女はランウェイの一線を退いたのちには精力的に創作活動、表現活動に励んでいました。

様々なことに純粋な興味を持ち、彼女に対する「外見は大人の女性だが、中身は10歳の少女だ」という言葉がとても印象的でした。

私も生活者の範疇はでることはありませんが、そうした創造、表現活動にまつわることを、彼女は生涯を通じて行ってきたように、私は見聞きをしていきたいと、強く思いました。

 gift、という単語があります。

贈り物、という意味ですが他にも「神が与えし才能」という意味もあるそうです。

きっと彼女もその内の一人で、その才能を十二分に発揮して(彼女の才能を発揮させた才能もありますでしょうが)、時代を超えて今の私に非常に深い感動を与えてくれている。

以前だとgiftを感じられない自分に落胆することもありましたが、この頃になると、むしろ神に愛されし者らが私に与えてくれるものにワクワクし、十分満足しています。

 

議論の風が連れていくほうへ、ではないけれど、美しさの香りがする方へ、漂い続けていきたいですね。

山口小夜子の存在を教えてくれた友人に感謝です。

 

到底自分が思うような美しいものばかりではありません。そんな時、感受性な自分はなよっとしてしまいます。でもその感受性を持ちうる部分の自分、分人主義というのですかね、をマッチョな自分で守っていきたいですね。その自分もどの自分も自分ですからね。

強くあろうと、しゃかりきになりすぎるときに、感受性を持っている自分が冷やしてくれるのですよね。

「人は配られたカードで勝負するしかない、それがどのようなものであれ」

とはピーナッツの言葉です。それはつまり分人主義でいうところのそれぞれの分人だと思います。それぞれにカードを切って、夫々の場面で輝くエースカードがあると思います。どれか捨ててしまったら、自分という役はいなくなると思います。

 

「氷の花火」でも、山口小夜子さんの関係者が「彼女は自分を『小夜子さん』という時と『小夜子』という時があった。皆に求められている姿として『小夜子さん』と『小夜子』を使い分けていた」(たぶんこのような内容だったと思います)という証言がありました。

きっとどちらも山口小夜子で、山口小夜子なのでしょう。それを合わせて”山口小夜子”が存在していたのかなあと思っていました。

ランウェイを歩くときの小夜子さんとそれを作り上げる小夜子はどちらも欠けてはならいない山口小夜子だったのでしょうか。

単なる想像の範疇ですが。

 

さて、明日から本格始動です。取りあえず動いて見ないことには分かりません。

エナジーはもらいましたし、目標に沿って、6割主義者ですが、勝負していきたいと思います。