私と普遍、不変、ふるい

ある本を読んでいた時に、ちょうどその直前に読了した本のことが出てきて、なんだか偶然というか、必然というか、導かれたようなそんな気分になりました。

突然トイレに導かれるように起きて(途中夢をみていたのですが)、ぱっちりしてきましたし、夜中に考えるくらいなら書きだした方がすっきりしそうなので。

 

ふるいには二種類あって、時間のふるいと環境のふるいです。前者はこれまでの時間、後者は空間的なものであったり、帰属や所属などの社会的なものを指します。

何をふるわれるのかと言われると結局は自分の自己存在理由みたいなものかもしれません。あと人間関係。

自己存在で終わるのではなく、「理由」がくっついているのは、「どうしてもこれをやらないと気が済まないし、生きている限りはそのことにさいなまれ続ける」っていう、自己と存在を結びつけている綱のことであるからです。

 

丁度、私は時間と環境のふるいにかけられる機会に恵まれました。

そしてその「理由」に自覚的に徐々になりつつあり、それはとても積極的に、です。

 

自分の行動は「普遍さ」に則って行われ、社会に生きている限りは守らなければならないルールの一つでもあります。普遍化可能性の法則。

そして普遍、そして不変であるということは科学のルールの一つでもある。

誰がやっても或る方法にのっとれば同じ結果が出る。誰でもという普遍と同じ結果という不変。

 

普遍には「受け入れられる」という事も内包している。みんな同じ、ということですね。

しかし、どうやら不変な部分が存在していることに最近自覚的になりました。普遍になりえないのです。勿論、社会の規範を乱すような性質のものではないですけれど。

やはり、自己が存在する限りにおいては、「不変の部分」が、私の存在において「普遍」な部分で、それに自覚的に、且つ行動的になることで、先日書いたように「自分のことをやれている」という充足感に行きつきました。そして管理もできる。

さいなまれ、と上に記したのは実際に遠ざけようともしたし、自分から近づいた時もあったからです。どうも忘れられないし、その当時は原罪でも背負っているかのような、存在そのものが罪の意識で一杯でした。

いつかなくなると思っていたのですが、いくら時間がたっても、その熱量は変わらない。むしろ高くなる傾向すらありました。

そして環境が変わっても特に変わらない。むしろふるわれた分、やはり必要なんだこれが、と自覚的になった次第です。

ようは「受け入れる」ということに近いです。

 

断っておきたいのが、ここに記していることは自分の心の動き、変化を整理するためであって、別に啓発を説きたいわけでもないし、ただこういう自分が居るという事に更に自覚的になるための、ある種のコミットメントの手法をとっているだけです。他人に自分の生き方を認め「させて」どうこうすることは居酒屋を出てはいけません。

 

その他の時間をある程度犠牲にして、それにどうしても費やしているわけですから、おそらく寝ることと食事の次くらいに、それについて考えることとそれに伴う行動に重きを置いて、置こうとしているのかもしれません。

睡眠欲と食欲の次にくる欲求になるのですから、マズローのいう生理的欲求でもあるし、その5段階の次にくると言われる自己超越欲求なのかもしれませんね。

そして、それは一つのウィークポイントでもあります。つまり、自己と存在をつなぐ「命綱」なわけですから、それを切られるとあまり良くはない。

命綱も私自身なのかもしれませんから、「ウィークポイント=弱さ」を認める→守る(方法を探る)→さらけ出すというのは自分を他者の水槽に投げ入れて関係するための重要なドグマかもしれません。以前書いた弱さについての一つの補足ですね。

 

ともあれ、自己存在理由について基礎を打ち込めたことは大きな成長の証だなと思っています。見失わないで済みそうです。過不足なくかけました。