私と他人

段々と暖かになり、夜も以前よりかなり眠り易くなりました。

それに伴い、内面も徐々に平衡を保ちつつあります。

色々な揺れ幅はありますが、誤差が少ない平均値をとることが多くなりました。

 

他人の動向を病的に気にするとき、明らかに自分の生活が欠落していることが、ふとした会話で明らかにされました。勿論自分について、です。

ここを見てくれている友人もいるので、断っておきますが、現在のところ限りなく平穏に生活を送ることが出来ています。

揺れ幅の大きかった内面的生活について、徐々に規則を取り戻して、というか規則を獲得しつつある期待感があります。

最近は実存という考え方を通して、まなざしの中に生きる自分自身は、そのまなざしに左右されることを克服するために、どのような思考回路と行動をとればいいか、実践的生活を送っています。

 

或る時、カフェで男女が会話していました。

男性は、現在自分は社会的に曖昧な存在で、不安がある。ということを相手の女性に話していました。

女性は、そんな男性を励ます言葉をかけていました。

男性は、次に好きな人ができた、しかし今は曖昧な存在だから告白する勇気もないし、次に付き合う人は結婚すると決めているから(したい)と言っていました。

その言葉を聞いて私は、「自分の存在が曖昧な時、これは社会的にだけれど、そういう場合、その曖昧さを固定する方法として肉親ではない他人からの承認を契約という拘束力のある形で求め、それをもって自分の存在を作り上げ固定化するのか。」と考えました。

しかし彼は自分の存在を彼自身の手で固定化したらば、その後もし付き合ったとしても結婚のことは考えないのではないでしょうか。むしろまだ遊ぶなどと思うのではないでしょうか。

 

これは彼を非難するわけではなく、かなり自分に思い当たる節があったからです。

そして、自分の欠落を埋めるために他人の承認を”強く”(この場合の強く、は結婚という契約の強さ)求めることは、欠落が埋められたとき、状態として芳しくなくなるなと思いました。

でもこれは至極当たり前の反応で、一人寂しい時、誰かの温かさを求めることに誰が反対するでしょうか。

しかし、反抗的ですが、そのように他人に’強く’担保されるような存在は克服したほうが、より充実して生活できるのではないでしょうか。

それは、他人はいなくなる、他人は変化するからです。その他人自体は自分以上に曖昧だからです。

とはいえ、他人の存在なしに自分を考え語ることには限界があります。生まれたときからそういう環境にいるわけですから。

論理世界の外に出られないように、他人が失われる世界にでることはできません。

しかしそれを踏まえたうえで考え行動することはできそうではないでしょうか。

 

カフェでの一場面は示唆に富んだ時間を私にもたらしてくれました。