私と直観とモノを見ることの試論

物を純然に見るという事はどういうことでしょう。

村上春樹は英語を習熟するにあたって「英語で書かれているもの以外を見ない」と決めて生活を送ったらしいです。

むかし村上春樹が書いてた、英語が読めるようになるほとんど唯一の方法、というか「生き方」 読書猿Classic: between / beyond readers

英語で書かれているもののみで生活するとは非常に困難だと思います。万人がやれることでもないと思います。

しかし、我々は見るものを本当に見ているのでしょうか。

桜が綺麗ですね。そろそろ桜よりも葉のほうが多くなってきていますが。

桜を眺めるときに、桜に誘われて桜を見に行くことはあるのでしょうか。桜を見ているときにレンズごしに眺めることがないでしょうか。

眼球から対象までは真空ではなく、そこには様々に塵が浮遊していて、桜に視線が到達するまでに、直観という視線は非常に減衰しているのだと思います。

物を見るその瞬間に再構成されて、その瞬間桜は「私の桜」になっており、大地に根をはり、自然物としての桜はただの観念上のものになっていると思っています。

しかし、それを回復するのが直観の役目であると考えています。

直観を用いてみるものとは如何なるものになるのでしょうか。

そして直観を用いてものをみる、とは何を私に教えて、もたらしてくれるのでしょうか。

村上春樹は英語のみの生活に異議を唱えるものに対して、本当に我々は必要な事を必要な事として行っているのか、と反論しました。

我々は本当にモノを見るということをしているのか。そしてモノを見るという事はどういう意味なのか。

私はモノを見ることを考えることは、豊かさをもたらしてくれると思います。それはノイズを真空に変換し、抵抗の無い状態で、直観をモノに照射し、その反射を、私という増幅装置で感受性と反応を起こさせるのです。

その時、触媒や、温度や、圧力で、感受性の光学が完成するのだと思います。