私と手紙

時空間的に自分と隔たることがないので、自分が変わったと感じられるのは、時空間的に隔たりがある外在的なものでしか、判断できない。

例えば過去の日記や写真。例えば長く会ってない人物と再会を果たした時。

日記や過去の記録では考え方の変化や筆致の変化、姿の変化で伺いしることができるだろう。

後者は、出会うまで、お互いに変化しない。私の中では、姿が最後のままでストップしている。自分の中の他者は成長しない。そして自分も変化しない。

あの人は元気だろうか。

お互いに出会うその瞬間に、お互いの時間が一気に進む。日に何度か、時刻を合わせる電波時計のように、目まぐるしく針が正刻を指すまで息もつけない。

そしてようやく一秒が一秒を刻むときに、私たちは言葉を継ぐことができる。その瞬間が「変わってないね」なのか、「変わったね」なのかは関係のないことだ。

急激な冷却に耐え切れず、関係の器はひびが入るかもしれない。一方でその外気に曝され、耐え、美しい紋様を描くかもしれない。窯を開ける瞬間まで関係性は暗闇の中、曝され続けている。

器に例えるならば、手から滑り落ち、一気に砕けるのも関係の比喩として正しい。窯の中に入れられたまま、忘れ去られるものもあるだろう。

関係が器なのだとしたら、関係を作るのが我々で、ふいごを吹き、薪をくべ、様子を見るのも我々だろう。しかし、我々は関係の器を作るのみではない。

作品は、芸術品とされるものを見るとき、芸術品は変わらない。空間の中に一定の広がりを占有する。

しかしそれを見る我々は刻々変化していく。故に作品を見るときに受け取る印象が変わって見えるときがある。

実はそこに自身の変化を知る手がかりがあるのだ。

関係の器を見るとき、それを眺める私が変化する。関係の器が変化したように思えるが、そうではない。私が変化しているから、器が変化しているように思えるのだ。

関係は普遍だ。一度焼成されると、あとは時間と、変化していく我々によって見方が変わる。

情熱的に燃えた関係ならば、急激な冷却が発生すると、耐え切れず割れるだろう。もし、耐えきったとしたら、緋襷のような朱く美しい紋様を残してくれるかもしれない。

しかし、現実の焼き物ほど、易くはない。

殆どの関係は、我々が上手にコントロールしつつ、時間という誰も操作できない偶発的要因によって、固有の紋様を残す。

それは、とりだすまで分からない。そしてその後、それを眺める我々よっても変化するだろう。器は変化しない。私たちが変化するから、器が変化したように思うだけである。

不変であると思いがちな我々は、やはり人を必要とする。そうすることで器を見る自分を知り、モノを見る自身の変化に伴う或る「豊かさ」を知ることができる。

 

そのようなことを、あの人へ送る。