私と過去の扱い

今日は、仕事に行き、自尊心を回復し、昼ご飯と夜の仕込みをして学習し、帰宅して夜ご飯の支度にかかりました。

これからもほぼ毎日となると、些かげんなりしますが、休みはあるし、恵まれているので、折角だし好きなものでも実験的に作ろうかと思います。

最近の発見として、夜ご飯を食べると疲れがどっと出てます。しかし発起して風呂→筋トレをこなすと、いつの間にか、寝るまでのラストスパートに切り替わります。

いや、寝るまでの助走、ですかね。

そういう風に体が出来ているみたいですね。それでも切り替わらないときは早めに切り上げて寝支度に入ります。いつもと違う、という事は何かしら強度のある疲労がたまっているという事だと思っています。

最近は

起床→朝食(温かい汁物は必ず、後は糖質を組み合わせて)→しばらく瞑想→仕事

というサイクルで朝は回しています。その日の感情や体調を点検しています。

朝のカロリー摂取の前に、脳を使うようなことは避けています。頭脳労働でも、朝のカロリー不足の状態ではその日のその後の行動とその心理が違ってきているようです。

 

過去とは、今の私にとってどういうものでしょうか。

最近、その扱いについて色々と考えていることがあります。

今の私に、その過去はどれほど干渉することが可能なのでしょうか。私は考えます。干渉できないと。されてはならない。

確かに、私の中にその時間が生きた場面、時間が在りました。過去が私の中に生きた事実はあります。

しかし、その時軽く頬をつねります。今を生きているのは私であり、生身の存在はあらゆる現象に先行しています。

しかし、その過去を否定したり、消し去ってしまおうとは考えていません。

その過去を生きた事実は、私に確かにあり、それを消す消さないこと自体、矛盾してしまうからです。それを許したのは私です。

私は手向けの花を一輪添えることはできますが、それ以上のことはしてあげられません。それは仕方のないことで、過去自身も私に手向けられる以上のことはできません。

花を手向け、いつまでもひざまずいているわけにはいかず、頬をつねられている私は存在しているのですから、今の私に失礼です。

決別はしませんし、できない。でも今の私は確かに在る。

頬をつねるとき、シャワーの水滴に打たれているとき、感じます。

生身をひしひし、感じています。

私がたおれたら、私という直接性は自己完結してしまうでしょう。けれどもだからこそたおれずに、直接性を固持していきたい。考える葦とはまさにそういうことかと。

誰かの直接性もそんな感じで見守っていたり見守られたりしているのですが。

 

明日は映画を見に行きます。おーるたいむべすとの映画なので楽しみです。