私と4月

4月が5月へ引き継がれるとき、外を歩いていました。

何処にいてもおかしなもので、共通の季節の匂いを”感じ”、そのおかげで季節の記憶がある。

少しおセンチな気分に浸れるのが、晴れた夜の散歩のよいところです。

4月の頭は、孤独感がここに極まれり、という感じで何か言いたいけれど、言えない、誰かに会いたいけれど、何を話したらいいか分からない。そういうことがぐるぐるしていました。

状況が状況で、まずは落ち着くこと、穏やかさを得て、学習することを優先していたので人と自ら接触することを避けていたのですが、要は機が熟していたのか、少しずつその殻は破られて行きました。

色々と皮切りに人と接触する機会が増えた月でした。

生活の場所と、時間配分と、周囲の人が変化した結果、残るものがいくつかあり、そのうちの一つが「人と話す」ということでした。

以前にも書いたように、自分以外の人間と、特に生身で話をしないと、少しずつ自分との距離が狂い、焦点が合わなくなっていくようです。

大事なのは、生身で接すること。場の力も作用して様々な変化が発生することを改めて考えました。

一人では生きていられず、「対話(ダイアローグ)」は必須の要素です。

独りでの思索はそれによって更に磨かれて作用していくことができるようですね。

 

4月の一か月だけでも、非常に色々なことを考えました。毎日は摩擦のない道に見えても(それはこれから、やこれまで、として見るとき)、その日その日の紋様は明らかに違う。

4月の1日と30日ではたっている場所が違う、そういう確信があります。

こうした経験は、つまり今後1か月単位での生活を考えたとき、1か月後の私はきっと立つ場所が違うだろう、けれどそれは今の尺度では測れない。成長(変化)とはその尺度自身も変化していくことに他ならないのですから。

3か月前の私を良く思い起こそうとします。文章として残ってはいるし、それを読むと幽かに当時の残り香を感じますが、それ以上は分かりません。

それは同じ距離分3か月先へ、たまに投射します。それが、少し愉しみなのです。

こうした、未来への投射へ愉しむ気持ちがあることは、正直驚きです。

一日一日の平凡さを考えることすら恐怖だった毎日が、このような変貌を遂げたとは。

偶有性と必然性が、一つのキーワードとなって生活を彩っています。

 

私の4月はこんな感じです。