私と一人分

私一人分が生きるだけの本、音楽、身に着けるもの全般、食糧は、何がどれくらい必要なのか。

そして私一人分が生きていけるだけの時間はどれくらい必要なのか。

常にそういうことは考えたり、そっとして置いたりしてきた。それを考えることが一つ私の中の「生きる意義」の一つであるし、そういうことから私の「生きる意義」を洗練させようともしている。

そしてそれらからそっと距離を置くことは、息苦しさ(生き苦しさ)から解放されることでもある。ただぼーっとする時間やその他のことをやる時間がそうだ。

 

結局、おおまかな流れとして、就職や、家庭をもつなんてことが意識されないまでも、我々のまなざしや振る舞いの中に、そこに向かうのが当たり前でしょう、ということが見え隠れしていた、壮大な準備であった(と考えている)あの時期で、お互いの些末な時間の使い方の違いにどうして躍起になってしまったのだろうと思う。お互いをつぶさに監視しあっていたあの時期は。

何かをしている時間は何かをしていない時間だし、誰かを選ぶことは誰かを選ばないことでもある。

ただ時間の使い方が違うだけで「レールから外れる」「敷かれたレールの上をゆかない」などと表現される。

「レール」という比喩によって、レールによって進行が縛られている「電車」に私たちの人生を例えたのだろう。しかしレールから外れるとはどういうことなのだろう。

レールを例え外れたとしても、我々の人生が電車のようにレールに縛られたものであるのならば、結局新たなレールを敷いていくしかない。しかし新たなレールを敷くとなると個人の力で敷けるものなのだろうか。そして本当に新しいレールを敷くしかないのか。他にそのレールを進んだ人がいないのか。など。

それは結局外れる、外れないではなくて、「正しいタイムテーブル」に縛られた進行が想定されて、それが「遅いか早い」か、そして進行上にどういう「停車駅がある」か、の2点ではないのか。つまり陳腐だが、死という終着点に対して、「社会にでる」や「結婚」などが多くの人にだいたいどれくらいの時間に留まるのか、大まかに設定されているだけではないのか。

レールを敷くのは、個人なのか、時代なのか、文化なのか。

比喩で人を語ることが嫌なのは、比喩に使われる言葉の定義に人を縛り、そしてこぼれ落ちてしまい、こぼれ落ちるモノたちに責任を持たないことだ。単なる比喩のために悩む人もいる。

私は人のいう「レールから外れる」時、レールから外れるなんて思いもしなかった。ただ私はここで留まろうと思って留まっただけだった。ここは通過しようと思ったから通過しただけだった。

心情を無視して、比喩的に言われるのが嫌だった。

そして私は、たったそれだけの比喩で片が付くものなのか、と驚いた。

勿論そうした眼差しと言葉を投げかけてきた人はもう私よりはるか先に居るし、私のことは見向きもしなくなった。

色々とお蔭で洗練されてきたと思う。整理された、という方が近いかもしれない。

あと少しで新たな局面に立てそうである。その時見える風景にわくわくしている。

その為の準備として冒頭に掲げたことを真面目に考えている。